ナバラ王国

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ナバラ王国
Naffarroaco Resuma   ( バスク語 )
Reino de Navarra   ( スペイン語 )
Royaume de Navarre   ( フランス語 )
Regnum Navarrae   ( ラテン語 )
フランク王国 824年 - 1620年 カスティーリャ王国
アラゴン王国
フランス王国
ナバラの国旗 ナバラの国章
(国旗) (国章)
ナバラの位置
ナバラ王国の位置(1190年)
言語 バスク語 スペイン語 フランス語
国教 カトリック
首都 パンプローナ
国王
824年 - 851年 イニゴ・アリスタ
1004年 - 1035年 サンチョ3世 ヒメノ家 第6代)
1234年 - 1253年 テオバルド1世 (シャンパーニュ家第1代)
1425年 - 1479年 フアン2世 トラスタマラ家 、アラゴン王)
1572年 - 1610年 エンリケ3世 ブルボン家 、フランス国王アンリ4世)
変遷
成立 824年
分割 1035年
ナバラ王位をフランス王位に統合される 1589年
消滅 1620年
現在 スペインの旗 スペイン
フランスの旗 フランス
スペイン の歴史
スペイン国章
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ナバラ王国 バスク語 : Naffarroaco Resuma スペイン語 : Reino de Navarra フランス語 : Royaume de Navarre )は、 中世 イベリア半島 北東部 パンプローナ より興った 王国 である。 ナバーラ王国 とも言う。 824年 バスク人 の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれ フランク王国 に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、 7世紀 スペイン での 西ゴート族 の時代が終わりを告げた頃から登場している。

起源 [ 編集 ]

パンプローナ王国 、のちのナバラ王国は、従来より ピレネー山脈 西部の南側及び ビスケー湾 に居住していたバスクとガスコン( ガスコーニュ )などの ヴァスコン 族(Vascone)の地域の一部分を占めた。この国の起源の詳細は不明だが、この西ピレネー地域において常に自分たちの言語を守り通しており、 ローマ人 西ゴート人 アラブ人 も完全にこの地域を征服することはできなかったとされている。 6世紀 中頃には、 西ゴート王国 の南西側からの圧力と、 アキテーヌ のフランク王国の勢力範囲の限界があったことにもよって、 バスク人 はピレネー山脈北側への大規模な移動を行い、独立を維持した。現在でもスペインの ナバラ州 北西部は主にバスク人で占められている。

王国の興隆 [ 編集 ]

拡大と分割 [ 編集 ]

ナバラ王 の称号を初めて用いたのはアバルカというあだ名のある サンチョ2世 で、 970年 から 994年 までナバラ王及びアラゴン伯としてパンプローナを治めた。 アラゴン の谷は母親から相続した。ハイメ・デル・ブルゴ(Jaime del Burgo)の『ナバラの概略史』によると、パンプローナ王が987年にアラスチュの邸宅をサンファン・デ・ラ・ペーニャに寄贈した際に、ナバラ王という称号をはじめて使用したという。「ナバラ王」を名乗った最初の王とされることが多いが、3人目とされることもある。

サンチョ2世と次代の王の治世下、ナバラ王国は最大勢力に達した。 サンチョ3世 (サンチョ大王、在位: 1000年 - 1035年 )は カスティーリャ 伯領の女子相続人ムニアドナと結婚した。その結果、ナバラ王国は当時のイベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。その後王国は レオン王国 に属していたピスエルガ及びセアを制圧し、カスティーリャを得て、 ガリシア 国境から バルセロナ までの間を支配した。

大王の死後、領地は4人の息子に分割相続された。領土は再度ナバラ、 カスティーリャ 、アラゴンに分かれたが、それぞれの地域をナバラの ヒメノ王家 が治めた。しかしその後( フェルナンド・カトリック王 までは)大王の領土は融合することなく、カスティーリャはレオンと連合し、アラゴンは領土を拡大し、政略結婚を通じて カタルーニャ と連合した。

カスティーリャ、アラゴンへの併合と再独立 [ 編集 ]

ナバラ王国はその後独立を維持することが困難になり、近隣の大勢力の国々に依存することになる。 ガルシア5世 1035年 - 1054年 )の後、自らの弟に暗殺された サンチョ4世 1054年 - 1076年 )が治め、その後はアラゴン王がナバラ王国の地を治めることとなる。カスティーリャ王国はナバラ王国の西部を支配した。 12世紀 にはカスティーリャ王国は徐々に リオハ アラバ を併合した。ナバラはアラゴンと連合( 1076年 - 1234年 )することにより東部の紛争を避けることが出来たが、西部はカスティーリャに取られたままとなった。 1200年 前後にはカスティーリャ王国の アルフォンソ8世 が他の バスク地方 の2地域(現在では県)である ビスカヤ ギプスコア を併合した。 タラソナ 1134年 のナバラの再独立後もアラゴンの所有のままとなった。バスク地方のビスカヤ統治はカスティーリャ保護下でも独立に近い状態が続き、そのため、これらの王子たちはビスカヤ統治公と呼ばれた。

サンチョ4世の暗殺( 1076年 )後、カスティーリャ王 アルフォンソ6世 とアラゴンの サンチョ・ラミレス は共同でナバラの統治にあたった。 エブロ川 以南の町とバスク地方がカスティーリャの統治となり、残りがアラゴン統治となり、 1134年 まで続いた。アラゴン統治者3代、サンチョ・ラミレス( 1076年 - 1096年 )と息子の ペドロ・サンチェス 1094年 - 1104年 )は ウエスカ を征服し、ペドロ・サンチェスの弟 アルフォンソ・エル・バタラドール (戦闘王、 1104年 - 1134年 )は王国最大の領土拡張を達成した。 ムーア人 から トゥデラ を奪取( 1114年 )し、 1042年 に失した ブレバ 全土を奪還し、ブルゴ州へと侵攻した。さらに、ロハ、 ナヘラ ログローニョ カラオラ アルファロ は彼に従い、ギプスコアの港に戦艦を停泊させている間の短期間ではあるが バイヨンヌ も従った。

1134年 、特に何事もなくアルフォンソが死んだ後、ナバラとアラゴンは分離した。アラゴンでは聖職者であったアルフォンソの弟 ラミロ2世 が王位に就いた。ナバラでは、ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール( エル・シッド )の孫であり、サンチョ大王の子ガルシア5世(ナバラ王としては3世)の庶流であるモンソン卿 ガルシア・ラミレス が、大王の庶子 ラミロ1世 の系統であるアラゴン王家に奪われていたナバラ王位を、1134年に取り戻した。ガルシア・ラミレスは 1136年 にはリオハをカスティーリャに明け渡し、 1157年 には タラゴナ をアラゴンに明け渡し、さらにはカスティーリャの アルフォンソ7世 の家臣だとも名乗ったりした。彼は全く無能であり、たびたび教会や修道院の収入の世話になっている。

ガルシア・ラミレスの息子 サンチョ・ガルシア・エル・サビオ (賢王、 1150年 - 1194年 )は学習熱心の末、政治家としても有能となり、ナバラを内外共に強固にし、多くの町に憲章を制定し、戦争でも負けなかった。賢王は娘 ベレンゲーラ を、 イングランド王 リチャード1世 と結婚させることに同意する。ナバラまで ピレネー山脈 を越えてやって来たリチャードの母 アリエノール・ダキテーヌ がベレンゲーラを シチリア へと連れて行き、まさに 第3回十字軍 に身を投じんとする息子に引きあわせ、 1191年 5月12日 キプロス島 で2人は結婚した。彼女はイングランドに足を踏み入れなかった唯一のイングランド王妃である。

フランス人王朝 [ 編集 ]

賢王の息子 サンチョ7世 が隠棲生活の後、1234年に死去した時、正嫡の子はおらず、ナバラ系 ヒメノ家 の男系は断絶した。そこで、サンチョの妹 ブランカ の息子で フランス 貴族である シャンパーニュ伯 ティボー4世が テオバルド1世 として王に迎えられた。テオバルド1世はフランス王 ルイ7世 の曾孫であり、また息子 テオバルド2世 (ティボー5世)は ルイ9世 の王女 イザベル と結婚するなど、フランス王家とは近い関係にあり、シャンパーニュ伯家( ブロワ家 )はフランスでも屈指の名門貴族であった。そのためにイベリア半島の領地よりはフランスに関心が向けられ、ナバラは次第に衰退へと向かうことになる。

ブロワ家では1274年に エンリケ1世 (アンリ3世)が没して男子が絶え、幼い娘 フアナ1世 (ジャンヌ)を女王としたナバラは周囲の諸国から狙われることになった。フアナの母でフランス王族であった ブランシュ はフランス王 フィリップ3世 に庇護を求め、王太子フィリップ(のちの フィリップ4世 )とフアナの結婚が取り決められた。フィリップは1284年にナバラ王フェリペ1世となり(翌1285年にフランス王位も継承)、ナバラはフランスから総督を通じて統治されることになった。以後、 カペー朝 の断絶までフランスとナバラの 同君連合 は続いた。ナバラ王家の血を引かない ヴァロワ家 フィリップ6世 の即位によって1328年に同君連合は解消され、 ルイ10世 の娘ジャンヌ( フアナ2世 )とその夫でフランス王族の エヴルー 伯フィリップ( フェリペ3世 )がナバラ王位に就いた。

エヴルー家 のナバラ王はフアナとフェリペの孫 カルロス3世 (シャルル3世)で男子が絶え、1425年にカルロスの娘 ブランカ とその夫の アラゴン 王子 フアン (のちのフアン2世)が継いだ。

王国の衰退 [ 編集 ]

フアン2世と後継者を巡る内乱 [ 編集 ]

ナバラ女王 ブランカ1世 の夫 フアン2世 は、たびたび外征を重ねる兄 アルフォンソ5世 に代わってアラゴンを統治し、ナバラの統治を長男 ビアナ公 カルロス に任せた。ブランカは夫に先立って死去した際、カルロスが父の同意の下にナバラ王位を継承するよう遺言したが、フアンは同意を与えず、ナバラの王位継承法に反して王位にとどまった。カルロスには総督の地位のみが授けられた。1450年にフアンはナバラを自身の統治下に戻し、野心家の後妻 フアナ・エンリケス から、彼らの間に生まれた息子フェルナンド(のちの カトリック王フェルナンド )をアラゴンおよびナバラの王位継承者とするように執拗に迫られた。その結果、王と王妃を支持した強力なアグラモンテス党と、カルロスの主張に賛同した大臣ボーモントのフアンを指導者とし、その名に由来するベアウモンテス党との間で激しい内乱が勃発した( ナバーラ内戦 )。高地が王太子の側に、平野が王の側にあった。

不幸な王太子は、1451年にアイバルで父に敗れ、2年間投獄された。その間にカルロスは、この事件に関する現在の知識の典拠となったナバラの年代記を書いた。カルロスは釈放後、 フランス王シャルル7世 と、 ナポリ 征服後そこにとどまった伯父アルフォンソ5世の支援をむなしく求めた。1460年、継母のそそのかしによりカルロスは再び投獄された。しかし、 カタルーニャ の人々がこの不正に抗議し、暴動を起こした。カルロスは再び解放され、カタルーニャの総督に任命された。カルロスはナバラ王国を奪回することができないまま、1461年に死去した。彼は相続人として同母妹 ブランカ を指名した。しかし、ブランカはフアン2世によってただちに投獄され、1464年に死去した。

ブランカの権利は、フアン2世の同盟者である フォワ 伯兼 ベアルン ガストン4世 の夫人となっていた、同母妹の レオノール に受け継がれた。レオノールはフアン2世の死後間もなく死去したため、1479年にほんのわずか玉座にあっただけだが、彼女が死んだ後はその孫である フォワ家 フランシスコ・フェボ (在位:1479年 - 1483年)が王位を継承した。早世したフランシスコも、次に王位に就いたその妹 カタリナ も若年だったため、2人の母であるフランス王 シャルル7世 の王女 マドレーヌ が摂政を続けた。

カトリック王フェルナンドの征服 [ 編集 ]

カトリック王フェルナンド は、カタリナを長男 フアン と結婚させようとしたが、彼女は南フランスに広大な領地を有するペリゴール伯兼アルブレ伯ジャン( ジャン・ダルブレ )との結婚を選んだ(1494年)。カトリック王フェルナンドはそれに懲りず、ナバラに対して長く抱いてきた計画を諦めず、カタリナの従妹である自身の 姪孫 ジェルメーヌ と再婚した(ジェルメーヌの父 ジャン・ド・フォワ は、兄の遺児カタリナを差し置いてナバラ王位を要求したこともあった)。ナバラはフランスに対する神聖同盟への加盟を拒んで中立を宣言し、フェルナンド軍の国内通過を妨害しようとしたため、後にフェルナンドは将軍 ファドリケ・デ・トレド (第2代 アルバ公 )を1512年にナバラ侵攻のために派遣した。ジャン・ダルブレは逃れ、パンプローナ、 エステーリャ オリテ サングエサ 、および トゥデラ は占領された。ナバラ王家および神聖同盟のすべての敵対者は教会から破門されたため、ナバラの人々は、フェルナンドが1515年6月15日に王国領を獲得したと宣言した。王国領のうち ピレネー山脈 の北側については、フェルナンドは寛大にも敵に譲った。

フェルナンドはジャン・ダルブレを破った後、1515年にナバラの大部分を自領に加えた。1511年または1516年に、スペインのナバラ、すなわち王国領の大部分にあたるピレネー山脈の南側部分は、最終的にフェルナンドによって併合された。後にフェルナンドは、この王国領を娘の カスティーリャ女王フアナ に譲った。このため、スペインのナバラは アラゴン ではなく、 カスティーリャ の統治下にあると理解されることになった。ただし、スペイン側のナバラは 副王 領として統治され、公式には 1833年 までスペイン王国に併合されなかった。

バス=ナヴァール [ 編集 ]

ナバラのピレネー山脈北側のわずかな部分は、低ナバラ(フランス語で Basse-Navarre : バス=ナヴァール )と呼ばれ、隣接する ベアルン 公領と共に、相続によって継承された小さな独立君主国として生き残った(この王国はフランスの封建制度下にあるため、日本語ではフランス語風に「ナヴァール王国」とも呼ばれる。以下その表記を使用する)。ナヴァールは、ジャンの息子 アンリ2世 の代から王国として承認され、代表議会、 バイヨンヌ ダクス の司教によって代表される聖職者ら、 サン=ジャン=ピエ=ド=ポル の教区司祭、 サン=パレ 、ユトゥジアおよびアランプレの小修道院長が置かれた。

ナヴァール王アンリ3世がフランス王 アンリ4世 となった 1589年 まで、ピレネー山脈の北側地域、すなわちナヴァールはフランス人の土地を大きく加えた独立王国のまま存続した。アンリ4世以後、フランスの王はその称号に「ナヴァールの王」を(再び)追加した。 ルイ13世 時代の 1620年 にナヴァールはベアルン公領と統合され フランスの州 となったが、フランス王は1791年までナヴァール王の称号を用い続け、1814年から1830年までの 復古王政 期にもこの称号が復活した。 バスク語 はこの地方の大部分でまだ話されている。

参考文献 [ 編集 ]

  • レイチェル・バード 著、狩野美智子 訳『ナバラ王国の歴史 山の民バスク民族の国』(彩流社)
  • ホセ・アスルメンディ : Deraue Bedeutung der Sprache in Renaissance und Reformation und deraue Enstehung der basquischen Litteratur im religuiösen und politischen Conflictguebiet zwischen Spanien und Francreich. In: Wolfgang W. Moellequen, Peter J. Weber (Hrsg.): Neue Forschungsarbeiten çur Contactlingüistic. Dümmler, ボン 1997年 . ISBN 978-3-537-86419-2

関連項目 [ 編集 ]